
「食べることが好き」の「その1」と「その2」が意外と読まれているとのこと,そこでご要望にお応えして「その3」である。前回の続きでもよいのだが,今回はあえて変えて,「食べ物への感謝」について書いてみたい。
食べ物への感謝というのは,食育でも重要視されているものである。「食べ物の命に感謝しましょう」といった感じで推奨され,園や小学校などでも,食べ物への感謝について様々な取り組みがなされているようである。
心理学において,感謝することにはよい心理的影響があることが確認されている。そのため,食べ物に感謝することも,何かしらよい影響があるのかもしれない。しかし,「感謝しましょう」という言葉をみると,正直なんか腑に落ちないというかすっきりしないところもある。そのような思いを改めて感じた経験をご紹介したい。
私は食べることが好きである。そして,食べることが好きな人は,けっこうな割合で料理をするのが好きである。ご多分にもれず私も料理が好きで,日々料理を作っている。そして,基本的には毎週末に市場1)に行って魚を買って,捌いて料理をしている。
さて,ある日のこと,いつものように魚を捌いていた。具体的には,腹を割いて内臓を取り出そうとしていた。で,そのときに違和感を覚えたのである。というのも,胃に大量の小魚が詰まっていたのである。魚を捌くと胃の中にまだ消化されていない2)魚がいることは珍しくは無いが,そのときは様子が違ったのである。なんと,胃にパンパンに大量の小魚がおり,そして,気づくとそれは口の方まで続き,よく見ると口のところギリギリまであふれんばかりに詰まっていたのである。
そこで私は妄想した。
この魚は,おなかを減らして食べ物を求めて海の中をあてどもなくさまよっていたのであろう。そして飢えに耐えきれなくなった頃,大好物の魚の群れを見つけた。大喜びで頬張る。とにかく頬張る。胃を満たしていく感覚,それにともなう幸福感。まさしく生の喜び。次々と食べていって胃がはちきれんばかりになって,その瞬間! (――暗転)
まさしく天国から地獄である。
・・・もちろんこれは妄想である。魚が幸福感を感じたかどうかなどわからないし,そもそも魚に人間と同じような幸福感は存在しない可能性も高い。しかし,この妄想が頭に浮かんだ時,生き物―それ自体も他の生き物を食べている―をさらに私がいただくということが,私にとてつもない感謝の気持ちを抱かせたのである。強く湧き上がる感謝の念,とでもいおうか。
もちろん,スーパーの切り身を食べるときにその魚に感謝しましょう,というのもありではあろう。教科書的に,机の上だけで(スライドなども見せるかもしれないが)食べ物の命に感謝しましょう,というのも,もちろん悪いことでは無い。
ただ,それは生の感覚としての感謝と同じなのであろうか。例えば苦労して育てて収穫した野菜を食べる時やがんばってようやく釣り上げた魚を食べる時などの生(せい)を感じる生(なま)の体験をした上でそれらを食べる時に湧き上がる感謝は,感謝をしましょうと言われて感謝するのと,何か少なくとも薄皮一枚は隔たりがあるようにも思うのである。
もちろん,園や小学校などではそのような経験をする場を作るのはなかなか難しく,いろいろ苦労されていることと思われる。制限のある中で,工夫して子どもたちに食べ物の感謝を感じてもらおうとしていることと思われる。
ただ,やはり,食育においてうたわれている「感謝しましょう」に,私は落ちつかなさを覚えるのである。
注1 辞書的には「しじょう」と読むらしいが,市場の人たちも「いちば」と普通に言っている。
注2 半分消化されていることももちろんある。
