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「なぜ?」について

投稿日:2025年02月27日

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 今年度の4年ゼミ生の8名が、12月に卒業論文を提出し、年明け1月に論文発表会・口頭試問を終えました。毎年、「大学生活の中で一番頑張ったこと、やり切ったことがゼミであり、卒論であり」と話すゼミ生がいます。もちろん、そうは口に出さないゼミ生も、1年間よく頑張ってやり切ったのは、皆同じです。思えば、卒論のテーマを決めるために8名のゼミ生全員と個別に話を重ねていたのが、ちょうど昨年の今頃のことです。卒論の始まりはテーマを決めるところからですが、「卒論のための卒論テーマではダメ。自分が心から知りたいと思うことで卒論を書く」ことが大事です。
 自分が心から知りたいことは何か。それは、ゼミ生自身が自分の心に問いかけながら、自分を見つめていく作業と言ってもいいでしょう。そのプロセスを経て出てくる一つの問いは「自分(私)」です。例えば、「私が優柔不断だから、優柔不断のことを研究したい」や、「私はボードゲームをこよなく愛しているので、ボードゲームの魅力を研究したい」などです。どれも自分(私)から出発した問題意識が語られていて、だからこそ自分が心から知りたいと思える卒論テーマに繋がっていくのです。
 自分(私)から出発した問題意識を卒論テーマに繋げるために、もう一つとても大事にしていることがあります。それは、各々の問題意識が「なぜ?」という問いの立て方になっているかどうかです。例えば、優柔不断と意思決定との間に関連性があるのかというテーマだとすれば、優柔不断な人は意思決定に時間がかかることが明らかになったという結論が得られるだろう思います。しかし、一見するとよく分かったような気がしますが、優柔不断と意思決定との間には大きな隙間が空いていることに気づかされます。その隙間こそが、「なぜ?」という問いの立て方です。つまり、「優柔不断な人は、なぜ意思決定に時間がかかるのか?」を問うことが、その隙間を埋めていくことに繋がります。
 この「なぜ?」という問いの立て方は、保育にとっても大切な視点です。例えば、年中のA君が泣いている場面では、保育者は「なぜ泣いているのか?」と考えます。これは保育者として当たり前の意識であり、「なぜ?」の第一段階です。ここで保育者はまず状況を把握しようとするでしょう。そして、仮に「A君はB君に玩具を取られて泣き出した」という状況が分かったとしましょう。しかし、この状況把握は「なぜ?」の第一段階の答えにしか過ぎず、本当の意味での「なぜ?」の答えとは程遠いものです。つまり、この保育者は「なぜ?」の第二段階に進まなければなりません。つまり、「A君が玩具を取られたことでなぜ泣いたのか?」…このことです。それは、A君が玩具を取られたことと泣き出したこととの間の、隙間を埋めていくことに他なりません。A君は玩具を取られてなぜ泣いたのか、悲しいから泣いたのか、悔しいから泣いたのか、怒りで泣いたのか…。そして、どれほどの悲しみなのか、どれほどの悔しさなのか、どれほどの怒りなのか…。「なぜ?」を深めていくことこそが心に寄り添うことであり、保育者として持っていてほしい大事な視点です。
 今年度の8名のゼミ生は、各々なりの「なぜ?」という問いを立てることを実践し、それを研究するという大事業を成し遂げました。しかし本番はこれからです。子どもの心の「なぜ?」をどこまで考え、了解できる保育者であり続けて欲しいと願っています。

こども心理学部

横畑 泰希

横畑 泰希
(YOKOHATA Taiki)

プロフィール
専門:発達臨床心理学
略歴:臨床発達心理士・産業カウンセラー
東洋大学法学部卒後、(株)Olympic勤務(1988~2005)。
その後、立正大学文学部卒、淑徳大学大学院総合福祉研究科博士後期課程単位取得退学。
(福)龍澤園慈光保育園・(公社)千葉市民間保育園協議会・千葉市子育て支援館に勤務後、福島学院大学福祉学部専任講師を経て現職。

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