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触発するアートと私たち

投稿日:2023年06月01日

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 ここ数年、劇場も、ライブハウスも、美術館も、博物館も、映画館も、寄席も行っていないという人は多いと思います。コロナ禍のために、「いつでも行ける」場所にある、生の、本物の作品を見る機会を逸してしまったと感じる方もいることでしょう。私もその一人です。しかし今年は思い切って、バレエの公演を観に行きました。ハンブルク・バレエ団の5年ぶりの来日公演ということもあって、座席は多くの観客で埋まっていました。長期に渡るパンデミックにあっても、たゆまず研鑽を積んだダンサー達、そしてオーケストラの演奏家達の素晴らしいパフォーマンスを、観客が熱心に鑑賞する、そんな公演だったように思います。
 このときの演目は、同団を50年間率い、今年で退任する芸術監督ジョン・ノイマイヤーによる『ジョン・ノイマイヤーの世界』でした。この作品は、彼がどのようにダンスやバレエに魅了されてきたのか、誰に大きなインスピレーションを与えられたのか、どのような思いで野心的なバレエを作り出してきたのかを、ノイマイヤー自身が舞台で語り、彼のバレエ作品の見せ場が次々と演じられるものでした。その中にあった、ノイマイヤーが尊敬してやまない二人の人物を題材とした作品(『ニジンスキー』と『作品100-モーリスのために』)には、優れた芸術家に出会い触発されること、共に触発し合う存在であることへの歓喜が表現されていたように思います。
 ノイマイヤーのような芸術家に限らず、私たちも日々の暮らしの中にある何気ないことから多くの触発やインスピレーションを受けています。「〜に刺激を受けた」と思うときもあれば、全く意識しないうちに影響を受けているときもあるでしょう。触発を受けやすい条件や、どのような触発が生じるのかについて、心理学の研究でも調べられています。それには、触発を与えてくれる対象と自分自身との「距離」や「視点」、「関わり方」などが関係しているようです(石黒・横地・岡田、2023参照)。例えば、子どもたちに抽象絵画を見てもらう際、「この絵は同い年の子が描きました」と説明すると、「大人が描いた」と説明するよりも子どもたちが触発を受けやすくなることが示されています。また、実際に創作をした後で他者の作品を観ると、創作を経験しない場合よりも多くの特徴に気付くようになることも示されています。つまり、身近な存在であったり、自身の創作経験を踏まえて他者の作品を見たりすることが、触発を促す「深い関わり」を生じさせると考えられます。
 こうした考え方に基づき、芸術家と私たち心理学者とがタッグを組んで、触発と創造性をテーマとしたアートのワークショップも実践してきました。アートは美術館やギャラリーなどの特別な場所に行かなければ見ることができないように思いますが、それではいつまでも「遠い」存在のままです。芸術と深く関わることも、触発を受けることもできません。そこで、絵画を拡大コピーして床に広げたり、彫刻作品の前で踊ったり、実物を手に持ってみたり、身近にあるものをアートに見立てたり、話し言葉が音楽になる過程を体験したりと、様々なワークショップを考案して取り組んで来ました。誰かの作った作品に触発されて、自分も何かをしてみたくなる。そういった刺激の連鎖が少しずつ広がり、人を動かし、今まで取り組まなかったようなことに挑戦し、新しいものが生み出され、それがまた別の誰かを触発する。そういった社会になっていくことを目指した、教育的な取り組みでもあります。これらの取り組みは、書籍『触発するアート・コミュニケーション』で紹介していますので、手に取っていただければと思います。姉妹本である『触発するミュージアム』では、学校の外にある教育の場が有する「触発の可能性」を提案しています。合わせてご参照ください。

『触発するアート・コミュニケーション』(石黒千晶・横地早和子・岡田猛 編著)

『触発するミュージアム』(中小路久美代・新藤浩伸・山本恭裕・岡田猛 編著)

こども心理学部

横地 早和子

横地 早和子
(YOKOCHI Sawako)

プロフィール
専門:認知心理学、教育心理学、認知科学
略歴:名古屋大学大学院教育発達科学研究科博士課程後期修了。
東京大学大学院情報学環・学際情報学府特任研究員、同大学院教育学研究科特任助教を経て、現職。

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