
乳幼児は本当にかわいい。もう一度この成長のプロセスを味わえるとは思っていなかったので、観察者としても当事者としても実に興味深い。とはいえ、人生には「第二次・育児期」とも呼べる心理的イベントが待っていた。
① 呼ばせ方問題 ― 祖母か、グランマか、えっちゃんか。
確かに私は血縁上も法律上も「祖母」である。だが、同年代にはまだ子育て真っ盛りの人も多く、「ばあば」と呼ばれることに微妙な抵抗がある。自分でふざけて「ばあばだよ」と言うのは楽しいが、周囲から「ばあばに抱っこしてもらおうね」と自然に言われると、何か腑に落ちない。
この違和感こそ、心理学でいう「認知的不協和」であろう。心理学者フェスティンガーによれば、人は自分の考えや気持ち、行動の間に矛盾を感じると不快感を覚え、そのズレを埋めるように思考を調整していく。つまり「ばあば問題」とは、自分の内なる“若い自己像”と“祖母”という社会的役割がうまくかみ合っていない状態なのだ。
では、この不協和をどう解消するか。そうだ、「ばあば」ではない呼び方にしてもらえばいいのかもしれない。まだ孫は喃語しか話さない。今のうちに決断しよう。ラジオ体操仲間にヒアリングすると、「じいじ・ばあば」派が最多、「グランマ」派も少数ながら存在した。私が子どもの頃、2人のおばあちゃんを「お店ばーちゃん」と「保育園ばーちゃん」と呼んでいた。この流れでいけば「大学ばーちゃん」か。うーん、しっくりこない。
ネット調査(育児情報サイトのパビマミ,2017)によれば、「じいじ・ばあば」(49%)が最多で、「おじいちゃん・おばあちゃん」(34%)、「あだ名」(9%)が続くという。下の名前で呼ばせるなら「えっちゃん」か「えつこさん」か…。
結局のところ、この「呼ばれ方問題」は“役割の再定義”である。「母」から「祖母」へ――これは人生の中で訪れる“再社会化”の過程であり、新しい社会的アイデンティティを獲得する発達課題なのだ。
ある日、保育園に孫を迎えに行くと、子どもたちが澄んだ目で「誰のおばあちゃーん!」と声をかけてきた。「ぬぬぬ、やはり“おばあちゃん”か…」。家でぼやくと娘が一言。「20代・30代と張り合う気?」。そう、主観的年齢は実年齢より10歳ほど若く見積もられるものらしい。認知的不協和、まだ続く。
② 母と祖母の違いの認識問題
孫の世話をしていると、我が子を育てていた頃の記憶がよみがえる。顔立ちもどこか似ており、不思議な「世代のデジャヴ」を感じる。しかし決定的に違うのは、生理的機能としての母乳が出ないこと、そして愛着の序列である。
夜中に泣く孫をあやそうとすると、私の顔を見た瞬間に泣き声が一段と大きくなる。一方で母親(=私の娘)が現れると、安心したように泣きやむ。まさに「安全基地」がどこにあるかが明確に示されている。
極めつけは保育園での一場面。遠くからハイハイしてくる孫を見て両手を広げて待つ。だが、直前で方向転換し、その日遊んでくれた保育士のもとへ一直線。ああ、愛着は母以外にも形成されるが、祖母は二番手とは限らないのだ。
臨床心理学的に見ると、これは家族内のバウンダリー(境界線)を示す出来事である。祖母は“母の代わり”ではなく、“母を支えるサブシステムの一員”。また、発達心理学的にも、愛着は複数の養育者との間で形成されることが示唆されている。
こうした関係は、「社会的子育て」の重要性をも教えてくれる。家族や地域がそれぞれの役割を尊重しながらゆるやかにつながること――それが、子どもの心の安心と大人の心理的安定を支えるのだ。
③ 孫の視点から見える世界
とはいえ、乳児の世界は驚きに満ちている。孫と一緒にずりバイ(腹ばい移動)をしてみると、見慣れた部屋の風景が一変する。床の模様は地図のようで、カーテンの揺れは生き物のよう。私のお腹に孫を乗せて遊ぶと、自信にあふれ上から見下ろす“どや顔”が迫力満点。我が子の頃からそうであったが、この時期の赤ちゃんに悩み事相談をすると面白い。ちょっとやってみた。「科研費の申請がうまく書けないんだけど」と相談してみると、もちろん孫は私を慰めることなどせず、ただただ、私のお腹、顔を踏み越えて目をキラキラさせて、目がけたものに突進していく。―そうだね。やりたいものには、あきらめずにしっかり立ち向かえということだね。アドバイスありがとう。
そして今日も、食べ物に手を突っ込んで夢中で食べる孫の姿を見ながら思う。
――人生もまた、自分の手でつかみ、味わっていくたくましさとおもしろさが大切なのだと。

