
オーケストラや吹奏楽、合唱などで、ひとりだけ自分では音を出さないのに「音楽家」と呼ばれる人がいます。それが指揮者です。彼らの持つ指揮棒からは音は出ません。しかし、その指揮棒の動きは、演奏の質を決定するほどの意味を持っています。一般に、指揮者の役割は、多くの演奏者が一斉に奏でるために「タイミングを合わせる役割」であると理解されがちです。もちろん、それも指揮者の仕事の一部ではありますが、それだけでは指揮者の本質を捉えません。むしろ、指揮者の役割の核心は、楽譜には書ききれない音楽の“生命”を、身体を通して空間に立ち上げることにあります。
指揮者は、わずか1m四方ほどの指揮台の上で、身体の運動を使って音楽の「力感」を示しています。ここでいう「力感」とは、音の重さや軽さ、響きの広がり方、フレーズや音がどの方向へ向かうかといった、身体で感じられる音の運動性と、それらの移ろいへ即時に心を寄せる「内的流動性」のことです。インクで書かれる楽譜には音の高さや長さは示せても、どのような音の質感で奏でられ、どれほどの速度で流れ、どのように空間で響くべきかまでは書けません。指揮者はその「書けない部分」を、腕の加速度、重心の移動、呼吸の速度といった身体運動によって示します。演奏者はその身体表現を読み取り、音を出す前からすでに音楽の「運動性」や「内的流動性」に入り込んでいきます。つまり、指揮とは、音楽の力感を身体で可視化し、演奏者と共有する高度な身体表現なのです。
この「身体で音楽を理解し、身体で示す」という考え方は、リトミックの創始者ダルクローズの思想と深く結びついています。日本ではリトミックは幼児教育のメソッドとして広く知られていますが、そもそもの発想はまったく異なります。ダルクローズが著した初期の論考を読むと、彼がリトミックを構想したのは、優れた指揮者を育てるためであることが分かります。彼は、当時の音楽学校の生徒たちが、楽譜を「理解」しているにもかかわらず、身体が音楽に反応できず、指揮の動きが硬直してしまうことに強い危機感を抱きました。音楽の力感を身体で捉えられなければ、指揮者は音楽を立ち上げることができない。そこで彼は、拍やリズム、フレーズの方向性を身体運動として経験させる訓練を体系化しました。リトミックは、身体と音楽への反応を一致させるための「指揮者の基礎教育」として生まれたのです。身体が音楽の最初の楽器であるというダルクローズの思想は、指揮者の身体性を理解するうえで欠かせない視点だといえるでしょう。
近年、私たちがメディアを通して耳にする音楽の多くはデジタル音源になりました。人の筋肉運動を伴わず、デジタルデータが生成した音が、あらゆる場面で流れています。デジタル技術は不可欠であり、創造の幅を広げる力を持っています。しかし、人が身体を使って音を生み出すという、音楽の根源的な営みが身のまわりから静かに、かつ確実に消退しつつあることも事実です。身体を通して生まれる音楽には、演奏者の呼吸や緊張、迷い、決断といった、人間本来の感覚が宿ります。私たちが音楽に心を動かされるのは、音そのものだけでなく、その背後にある身体の気配に共感しているからかもしれません。テクノロジーが進歩する時代であっても、人の身体性を伴う音楽が、これからも私たちの感性を潤し続けてくれることを願っています。
【参考文献】
Jaques-Dalcroze, E. (1921). Rhythm, music and education. G. P. Putnam’s Sons.
Walter, B. (1957). On music and conducting. W. W. Norton.
Appia, A. (1962). Music and the art of the theatre. University of Miami Press.
Katz, M. (2010). Capturing sound: How technology has changed music (2nd ed.). University of California Press.

