「美術ってどんなこと?」と問われたら、皆さんはどんなふうに答えますか。美を受け止めるのか、生み出すのか、そのどちらの面においても、美しいと人が思うものは異なります。故に、「美の術(つくり方)」も個別のものといえるでしょう。私にとって大学の卒業研究で彫刻を専攻して粘土を傍らに置いていた頃は、「立体の面の傾きをつくること」が美のつくり方でした。美術の教師になって初めて教壇に立ったのは、美術室から太平洋が見える中学校、そこから美にひそむ「本当のこと、よいこと、美しいこと」といった価値の主題とスキルを見つめる生活が始まります。大学で教員養成に携わるようになって7年、改めてこの問題を考えてみたいと思います。ちょっと固い話になりますがお付き合いください。
江戸から明治に世の中が変わり坪内逍遥が記した小説論『小説神髄』(明治18年)には美術という言葉がたくさん登場します。当時美術は芸術と同義で使われていて、逍遥はそれまでの勧善懲悪といった定型的な物語を否定して、人情という心理的写実を重んじることで小説を芸術として発展させることを目論んでいたことがわかります。また美術を語ろうと先人の知恵をひも解くと、2000年の時を越え、古代ギリシャの哲学者を欠かすことができません。プラトンは人間にとって最も価値あるものは頭の中にある美を含めたイデアであると主張します。かたや弟子のアリストテレスは、最も価値あるものは目の前にある現実で観察を重んじます。この不可視と可視の対比は、美術を捉える上でとても重要な要素です。
さらに、プラトンを師と仰ぐ現代のハーバード・リードは、この異なる次元を次のように記していてわくわくします。「芸術とは形式の発見であり、それに伴う感情の表出であり 前者は現実の直接的覚知を後者は現実の象徴の建立を意味する」(『イデアとイコン』)これは、先に述べた個別の美のつくり方とも関連します。形式とは可視レベルの様式、スタイルで、技法、術と言ってよいでしょう。そしてそれだけでは不完全で、そこに不可視レベルの感情の表出が伴い、それらは統合されて象徴的な個別の美となると解釈できるでしょうか。リードの「芸術活動とは、感情の無定形な領域からの、意味深いもしくは象徴的な形式の結晶である。」という言説にもしびれます。冒頭の美の術についての私の回答を「その文字が示すように美的な感情レベルとそれを可視化する技術を統合して、その人の見たいものあるいは見たかったものを表す方法」をとしておきます。
2023年が明けて行われた共通テスト(国語)の問題を見て、嬉しくなりました。ガラスによる「視覚装置」である窓の対比が扱われていたからです。一つは正岡子規が晩年を過ごした子規庵のガラス障子、もう一つはル・コルビジェの設計したハイカラな近代建築の窓です。透明なガラス障子は寝たきりになってしまった子規を外界と繋ぎ、一方コルビジェの窓は開放と共にフレームが外界を遮る限定という手法を提示しました。
「子規とコルビジェ」の選択に唸ったのは、かつて東洋と西洋の似たような要素の作品を比較鑑賞する面白さにはまって、中学生といろいろ試みた経験があったからです。「サモトラケのニケ」と「月光菩薩」、「風神雷神」と「ビーナスの誕生」などなど。「平等院鳳凰堂」と「ランス大聖堂」では「水平に伸びる構成↔高く垂直に伸びる構成」の建築外観の対比や、「周りの自然を含めて一体化↔その建物だけで自立」という気付き等を手掛かりに、鳳凰堂は平安時代の浄土、西に向かって開かれ、一方大聖堂は強烈に天を志向していることを実感しました。現在私は美術の学びを方法論的な「芸術知」として体系的に捉える研究を進めています。
「美の術」の連想から、自分の生活は美からかけ離れていると思っている方はいませんか。私はNOと強く主張します。想像すること、イメージすることは、すでにイデアの世界の美的体験だからです。時代を越えて遠くにも近くにもある人間の歩みと共にあった美。皆さんにとっての唯一無二の美の術、美の方法論をぜひ深めていただきたいです。