皆さんは「マイノリティ[i]」という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか。「障害者」「日本に暮らす外国籍の方」「LGBTQ+」など、様々な方を思い浮かべるかもしれません。まず言いたいのは、例えば「障害者」であったとしても、その特性や体験・経験は個々人によって大きく異なっているということです[ii]。その前提の上で、今回話をしたいのは、「インターセクショナリティ」という視点・とらえ方についてです。
これまで日本における「マイノリティ」は、「障害者」や「LGBTQ+当事者」など、マイノリティ集団毎に論じられてきました。しかし、個人が体感する特性(アイデンティティ)は単数とは限りません[iii]。前述の例でいうと、「障害者」であり、「同性愛者」でもある個人は存在します。さらには日本に暮らしている人の中には「障害者」であり、「同性愛者」であり、「外国籍」でもある方もいらっしゃいます。インターセクショナリティとはすごく大雑把に言うと、個人内にある様々な特性の重なりに焦点を当てるとらえ方です。
「インターセクショナリティ」の視点がなぜ重要かというと、これまで見過ごされてきた(不可視化されてきた)方々を可視化する点にあります。インターセクショナリティを初めて提唱したのはアメリカの弁護士でもあり大学教員でもあったキンバリー・クレンショーです。当時のアメリカ社会における男性優位なジェンダー構造の中で、様々な女性の課題を論じるときに、同じ「女性」であることに加え「黒人」という特性を併せ持つ「黒人女性」の課題が抜け落ちていたことにクレンショーが言及したことが、インターセクショナリティの概念を提唱するきっかけとなりました。
このように「障害者」のみの枠組みで課題をとらえてしまうと、「障害者」以外の特性を併せ持つ、例えば「障害者でもありLGBTQ+当事者」の課題が不可視化され、結果として「障害者でもありLGBTQ+当事者」の課題は置き去りにされてしまいやすくなります。これまで不可視化されてきた個人内における特性の重なりについて、焦点をあてているのがインターセクショナリティというとらえ方です。
今回は特性の重なり、インターセクショナリティについて話をさせていただきました。改めてですが、人は皆、異なります。それは例えば「障害者」という集団内の特性においても同様です。個々人の障害者としての特性が異なるのはもちろんのこと、障害者としての経験や感じる抑圧は人によって異なります。私たちは人を見るときに、あの人は「障害者」だ、「LGBTQ+当事者」だなどと、定型の枠組みにはめてとらえがちです。ただし実際は、そもそも個人によって特性や体験・経験は大きく異なること、さらには特性の重なりがある場合もあるということを、ぜひ皆様に知っていただければと思います。
*なお本稿では障害の社会モデルの観点から「障害者」と記しています。
[i] 補足すると、マイノリティという言葉が指し示す範囲は必ずしも明確ではありません。日本政府は法律でマイノリティの定義を明らかにしておらず、マイノリティの定義に関して多種多様な議論があります。例えばマイノリティの概念とその対象を整理した岩間・ユ(2007)は、マイノリティ概念を限定型・拡散型・回避型の3類型に整理し、日本においてマイノリティは拡散型、または拡散マイノリティの概念が一般的であるとしています。その中で、拡散型マイノリティを、限定型(国際人権法のマイノリティ規定に依拠し、ナショナル、エスニック、宗教、言語の4つの特性に関して多数派とは異なる特性を持つと考えられる少数派をマイノリティとする)に対し、それら4つの特性に限らず、社会的・経済的・政治的弱者一般をマイノリティと見なすタイプと規定しています。詳しくは下記の著書をご参照ください。
出典:岩間暁子/ユ・ヒョヂョン編(2007)『マイノリティとは何か-概念と政策の比較社会学-』ミネルヴァ書房
[ii] 例えば清水は次の通り述べています。「きわめて当たり前のことだが、女性がみな同じ一つの何かを共有しているわけではない」。
出典:清水晶子(2021)「『同じ女性』ではないことの希望-フェミニズムとインターセクショナリティ」岩渕功一編『多様性との対話』青土社.
[iii] 例えばアイリス・マリオン・ヤングは次の通り述べています。「私たちの社会のような、複雑で高度に差異化された社会では、どんな人も集団的アイデンティティを複数もっている」。
出典:Young, Iris Marion (1990) Justice and the Politics of Difference, Princeton University Press. (= 2020, 河村真実・山田祥子訳, 飯田文雄・茢田真司・田村哲樹監訳『正義と差異の政治』法政大学出版局.)