文字や公教育のない時代から長い間、民衆によって語り伝えられてきたお話を伝承物語と言います。口伝えで語り伝えられてきた性質上、詳しい描写はなく簡潔な語りで物語が進められます。伝承物語は、学校がなかった時代の地域や家庭での子どもの教育に大きな役割を果たしてきました。しかし、近年では語れる人の減少や様々なエンターテイメントの普及等により、伝承物語が語られる(読まれる)機会は減少しており、日本昔話を10作品知っている大学生は少ないのが現状です。
では、現代社会において伝承物語にはどのような教育的価値があるのでしょうか。私は主に次の三つを考えています。
第一に、人生を生き抜くための知恵や教訓がたっぷり詰まっていることです。たとえば、「ヘンゼルとグレーテル」では、明日の食べ物にも困った夫婦が子捨ての相談をします。夫は反対でしたが、妻に押し切られとうとう賛成してしまいます。一度目は兄ヘンゼルの、道々小石をまいておく知恵により、無事家に帰ることができました。その後、また妻から二度目の子捨ての提案があったとき、夫はもう断ることはできませんでした。その様子が「『い』といったからには『ろ』といわないわけにはいきません。夫は最初、妻のいいなりになったので、二どめもそうするほかありませんでした。」と淡々と語られます。いったん悪事に手を染めた者は、二度目のそれを拒むことはできない、という厳しい教訓がさらりと語られているのです。
第二に、この社会には多様性が重要であることが語られています。伝承物語には、人と異なる個性をもつ「変わり者」が思わぬ活躍をする作品がたくさんあります。たとえば「一寸法師」では、親指ほどの小さな男の子が、小さいことを利用して鬼のおなかに入って鬼を退治し、大出世します。また「三年寝太郎」では、三年間、毎日ただ寝てばかりいた男が、ある日突然山に登り、山の上から大きな石を落として川をせき止め、干ばつで困っていた村を救います。世の中には、思いがけない非常事態が起こり、その際には、日常で「役立たず」とされていた者が、突然力を発揮してみんなを救う場合があることを教えてくれます。
第三に、人生を学べる、ということです。伝承物語では、親が子を捨てたり、妻が夫を裏切ったり、到底道徳的とはいえない出来事が語られます。現実社会でも、災害もあれば犯罪も起こり、思い通りにはならないのが人生です。予備知識の無いままに大人になって突然厳しい社会へ放り出される子どもたちの苦労は想像に難くありません。伝承物語には、その苦労を少しでも軽減するための、いわば「予防注射」としての役割があったのではないでしょうか。
伝承物語には、厳しい人生を逞しく生き抜く知恵や勇気を、安心できる大人からの楽しいお話として事前に疑似体験できるメリットがあります。楽しい夢に満ちた物語に加えて、厳しさのある伝承物語もたくさん読み聞かせ、逞しい社会の担い手を育てていければと願っています。