今日は、私の授業の様子を紹介します。
私は授業で、映画やドラマ、漫画などのフィクション作品を教材として使います。そのなかでも、ここ最近、授業でよく視聴する法廷ドラマがあります。それは『桃太郎』裁判です。ドラマの詳しい解説は割愛しますが、あの桃太郎が、鬼退治と称して鬼ヶ島を襲撃、被告人として裁判員裁判で裁かれるというお話です。このドラマは、『昔話法廷』シリーズの最終話として製作・公開されていて、現在は「NHK for School」というWebサイトから誰でも無料で視聴ができます。
ところで、保育や教育を学ぶ学生が、なぜ、法廷を舞台にした『桃太郎』裁判を観るのか。そんな疑問が浮かぶかもしれません。このドラマでは、物語の登場人物に扮した豪華俳優陣と着ぐるみ(?)が被告人や証人として法廷に立ち、「鬼ヶ島で起きた出来事は何だったのか」をめぐって熱い議論が展開されます。「桃太郎は、鬼退治をするために鬼ヶ島に行った」というお馴染みの物語は、登場人物それぞれの視点から語られる証言により、それとは異なる出来事へと姿を変えいきます。
学校や保育の現場では、子ども同士のいざこざやトラブルが日常的に起きます。教師や保育者に「何があったの?」と問われた子どもたちは、自分の見た主観的な現実を語ります。そこで語られる子どもたちの主張は、食い違うこともあるでしょう。その時、教師や保育者は、子どもたち一人ひとりの主観的な現実を聞きながら、そこで起きた出来事は何だったのか、なぜ、その出来事が起きたのかを確定する役割を担います。つまり、教師や保育者は、子どもたち一人ひとりの主観的現実を集約し、ある種の出来事-けんかなのか、いじめなのか、何か別のものなのか-へと記述し直すことで、その時その場での「事実」を確定する役割を担っているのです。
もちろん、その「事実」は唯一絶対ではありません。他の子どもや同僚の話を聞いて、別の「事実」へと修正することもあるでしょう。だからといって、教師や保育者の判断が間違っていたと言いたいわけではありません。ここで重要なのは、たとえ同じ出来事を経験していても、その出来事の見え方や捉え方は一様ではなく、立場によって解釈が変わりうるという現実世界に対する理解のあり方です。こうした理解の様式を、社会学では「多元的現実」(A. シュッツ)という概念で理論化しています。『桃太郎』裁判は、この「多元的現実」をドラマチックに描き出しています。
さて、では、私の授業で『桃太郎』裁判を教材に、「多元的現実」の話をするねらいはどこにあるのでしょうか。それは、学生が「いじめ問題」を多角的に理解できるようになることにあります。私たちは、メディア報道を通して社会的に大きな関心を集めた「いじめ事件」を知ります。学生自身が「いじめ」に関する何らかの経験をしていることもあります。しかし、当事者である学校の先生や生徒の声を直接、伺い知ることはありません。私たちは、報道を通じて一つの「事実」を見ているのであって、それとは異なる主観的現実を生きている人たちがいるかもしれません。それにもかかわらず、報道では一方的に学校や先生が強く非難される現状があります。
だからこそ、魅力的なフィクション作品の登場人物の視点を通じて、私が見ている主観的現実と他の人が見ている主観的現実は、異なっている可能性があるということを理解することは、保育や教育の現場に立つ学生には必要であると考えています。それはまた、学生が「いじめ問題」の当事者としてではなく、「いじめ問題」の外部に立って問題となっている出来事を捉え直す視点を学ぶことになると考えています。