春になると思い出す、子どもの頃のほろ苦い出来事がある。
6歳ごろだったであろうか、友達数人と河原の土手でヨモギの葉っぱを見つけた。
みんなで夢中になって摘んで、
「おうちに帰ってお母さんにヨモギ団子を作ってもらおう」と言って別れた。
私は家に大急ぎで走って帰って、
「ねえ、お母さん見て見て、こんなにいっぱいヨモギを摘んできたよ!これでヨモギ団子作って!」と期待に胸を膨らませて母に言った。
ところが、母から返ってきた言葉は、
「そんな猫や犬がウンチやおしっこをしたかもしれないヨモギなんて汚いから駄目よ」
であった。
まさかの言葉に私は体が固まった。その時の体の感触は今でも覚えている。そして、それ以来、母にヨモギ団子をねだることはなかった。
時は過ぎて、自分の子どもが小学校低学年の時に体操着を忘れて学校に行ったことがあった。子どもは学校から帰ってくると、
「今日、体操着忘れたから体育、見学になった」と言いにくそうに打ち明けた。
が、それを聞いた途端、
「だからあれほどいつも前の晩に確認しなさいと言っているでしょ!」
と私は怒鳴りつけてしまったのである。
「せっかくお母さんに教えてあげたのに、もう言わない!」
と言って、子どもは向こうに行ってしまった。
しまった!と思ったけれど後の祭りである。
なぜ、「それはがっかりだったね」と子どもの気持ちに寄り添う言葉をかけてあげなかったのだろう。まず子どもの気持ちを受け止めてから、忘れ物をしないようにアドバイスをすれば良かったではないか。
こうした積み重ねによって、親子の信頼関係は少しずつ崩れていくのかもしれない。
最近は演奏活動からすっかり遠のいているが、長年、私はクラシック音楽のピアニストとして活動してきた。ピアノ演奏とは、作曲家が作品として残した楽譜の一音一音に至るまで、その意味と背景にある作曲者の意図や心情を想像して共感し、自分なりに解釈し、音として空間に紡ぎだす作業である。豊かな感性や想像力、共感力、ピアノ技術の表現力が求められるのである。作曲者の思いを想像して共感し、自分なりに表現することをずっとやってきたのに、自分の子どものことになると、この様である。
今、私は大学で将来、保育者や教員を目指している学生たちに、音楽表現指導法や音楽実技を教えている。学生には音楽を通じて、共感力や想像力、適切な言葉や態度を示すことのできる表現力を身に付けてほしいと思っている。そして、子どもの心に寄り添うことができる豊かな感性を持った保育者や教員になってほしいと願っている。
今日も、理想と自分自身の現実とのギャップに悩みながら、学生には理想を語っている。
ヨモギ団子は今でもほろ苦い。