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問いはなぜ必要なのだろうか?-学習における理解と納得を題材にして-

投稿日:2025年06月26日

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 問いは,自己を問うことと同時に子どもたちや教材に問う開かれた性格を示している(生越,1991)。問いは理解を深めるだけでなく,思考を深める上でも欠かすことができない存在である(ウィギンズ・マクタイ,2012)。算数学習における問いの意義について両角・岡本(2005)は「『問い』が生まれ,問い続けることにより,事柄や事象(客観)について深く知覚し,理解し,洞察をすることができる。同時に『問い』と相対峙している私自身を内省することを通じ,それまでの私(主観)の培ってきた枠組みを意識したり,再構築する必要を感じることができる。『問い』を持ち,問い続けることによって,学びは進化していく。」(p.11)と述べている。問いにおいては疑問詞を伴うものが多い。それは,単純にYes or Noで答えられない答えに対応するためである。疑問詞を伴う文は「受信者に対して,疑問詞に対応する不定の事物を特定することを要求する機能」がある(町田,2021,p.212)。不定とは,「ある形態が表示する事物の集合に属する事物のどれが事態中の要素であるのかを,発信者または受信者が特定することができないという特性」を指す(ibid)。疑問詞を伴う文との出会いは,幼児期における絵本の中に見出される。玉岡(2023)は1歳から5歳向けの絵本の分類木分析から疑問詞の出現が「なに>どこ≧だれ≧どう=なぜ>いつ」の順で出現していることを明らかにしている。堀(1968)は小学校1年から中学校2年の児童・生徒を対象とした疑問の調査を行い,様々な疑問詞が登場する中で「どういうわけか」「どうしてか」「なぜか」「なんでか」が疑問詞において多く用いられている理由から,これらは疑問の中核であり,学年が上昇するにつれてその頻度は高くなり,女性よりも男性において傾向が見られることを明らかにしている(p.146)。したがって,問いは疑問文として現れ,多くには疑問詞が伴う。疑問詞を伴う問いかけは幼児期から見出される。学童期になると,問いは様々な形で子どもたちに対して現れる。このように問いは小さいころからごく自然な形で私たちと関わっている。
 「問い」について,次のような問いを考えてみたい。それは「学習において理解と納得はどちらが先行するのか?」というものである。疑問詞だと「どちら」である。この問いの妥当性について吟味してみたい。「問い」はどんなものでも問いとして機能するのだろうか?というのが出発点である。
 そもそも,理解と納得について,恥ずかしい話,私自身はその両者の違いについて当初はあまり深く考えることがなかった。だが,学生の模擬授業,教育実習での実習生の研究授業,小学校の現職の先生による算数授業を見ていると,「理解」という言葉がよく使われていることに気づいた。一方で,副校長先生や校長先生が実習生や現職の先生への教育指導として用いている言葉には「納得」がよく用いられていることに気づいた。意識的なのか無意識的なのかはわからないが,違いが見られた。以前,授業の中で,「納得のできる授業」とはどういうことかについて議論の問題提起をしたことがあったが,学生の反応は「理解のできる授業」と解釈をしていたためか,議論が深まらなかったことがあった。議論の中では,納得と理解は何が違うのかということについても言及をしてみたが,誰も答えることができていなかった。このことは,私自身の研究の関心にもなったし,議論が深まらなかったことに対する反省のきっかけにもなった。
 国語辞典で「納得」の意味を調べれば,「他人の考え・行為を理解し,もっともだと認めること。」とある。「理解」の意味を調べれば,「物事のすじみちをさとること。わけを知ること。物事がわかること。」とある。こう見ると理解と納得の間には類似性が見られる。一方で違いも見られる。それは,認めることには信念が絡んでいることである。その根拠は佐伯(1988)にある。そこでは「知る(Knowing)」ことを成立させるための必要十分条件として,(1)真実性[Truth],(2)正当化可能性[Justifiability],(3)信念[Belief]の3条件があり,(3)の信念条件の成立,すなわち「信念の固定[Fixation of Belief]」のことを「納得」と呼んでいる。時間軸で理解と納得の関係を見ると,どちらが先行しているのかという解釈はどちらにも解釈することができるように思える。
 理解の先に納得がある場合として,例えば,「なぜ2 + 3 = 5なのか」という問いに対し,数を数える,図で示すといった方法で子どもはその事実を理解しようとするが,この時点ではまだ「腑に落ちる」という感覚,つまり納得には至っていないことがある。繰り返し問題を解いたり,具体的な場面でその知識を使ったりする中で,徐々にその理解が自分の中で確かなものとなり,「なるほど!」と納得に至るというのがこの場合として考えられる。一方で,例えば,お菓子を公平に分けようとする中で「半分にする」という感覚を先に掴み,その後に「1/2」という分数や割り算の概念を理解していくといった場合,具体的な操作や試行錯誤を通して「なぜそうなるのか」という問いに対する「こうすればいい」という納得感を得ると思われる。そして,その納得感を基に,それがどのような数学的な原理に基づいているのか,どのように一般化できるのかといった「理解」を深めていくと考えることができる。こう思うと,この問題は「鶏が先か,卵が先か」という因果性のジレンマにも似ているような気がしている。
 このことから,「どちらが先行して重要になるのか」という問いを立てていたが,考えていくうちに実はこの問いが間違っている可能性も考える必要が出てくる。考えを深めていくうちにどちらとも考えられてしまうということは,問いが明確な問いとして機能していないということを意味している。
 なぜ問いが必要なのかということについて,今回の場合だと「学習において理解と納得はどちらが先行するのか?」というのは「鶏が先か,卵が先か」という問いに帰着できるかもしれないが,明確な答えを出すことには貢献しないという結論を生み出す。つまり,議論の妥当性を担保させるために問いは必要だと考えることができる。問いの題材として,あまり良い例ではなかったことは反省すべき点である。それだけ自分の研究の技量が未熟であることを意味している。自戒を込めて言うと,問いがいくら重要であるといっても,量で攻めれば解決ということにはならなさそうである。年々,問いの質について言及することは年を重ねるごとに必要なのかもしれないと感じている。私が見ている大学生は小学校教諭を志望する学生である。児童が問いを発した時,それに応えることのできる教員になってほしいと思っている。ただ,そのためには私自身が,議論を的確に進めることのできる「問い」を作ることができていなければならないと感じる。自分の技量をこれからも上げていきたいと思った次第である。

こども心理学部

紙本 裕一

紙本 裕一
(KAMIMOTO Yuichi)

プロフィール
専門:数学教育、教師教育
略歴:岡山理科大学理学部応用数学科卒業、広島大学大学院理学研究科中途退学
広島大学大学院教育学研究科 科学教育学専攻 数学教育学専修 修了
広島県の附属中学校、広島県の公立中、公立高の非常勤講師
梅光学院大学子ども未来学部専任講師(2017年)
東京未来大学こども心理学部専任講師(2018年4月より)

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