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変態心理:二重人格の少年

投稿日:2026年03月25日

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図書館で見つけた、ちょっと変わった雑誌
 大学生の頃、図書館で少し変わった雑誌の復刻版の本を見つけた。
タイトルは『変態心理』。大正時代—今から100年くらい前に発行されていた、心の不思議を扱う専門誌だ。
 「変態」という言葉を聞くと、今ではちょっと別の意味を想像するかもしれない。でも当時は、「普通とは異なる心理現象」という学術的な意味で使われていた。
 何気なくその本のページをめくっていると、「二重人格の少年」という文字が目に入った。一人の人間の中に、まるで別人のような人格が現れるーそんな現象を扱った症例報告だった。
 文章は、今の論文とはずいぶん違っていた。むしろ小説のような書き出しで始まり、登場人物の様子や会話が丁寧に描かれている。そして最後は、
「以下、次号」
そんな予告めいた一文で終わっていた。
「へえ、こんな書き方の論文があったんだ」
正直、そのときの感想はそれくらいだった。まさかその何十年も後に、自分がトラウマ治療を研究する仕事をすることになるとは、当時はまったく想像もしていなかった。

中村古峡という人
 この『変態心理』を創刊したのが、中村古峡(なかむら・こきょう、1881〜1952年)という人物だ。旧制一高を経て、東京帝国大学の文学部に入学し、心理学を専門に学んだ。同時に、文豪・夏目漱石の門下生として文学にも親しんでいた。
 その後、彼が精神医学の世界へ踏み出していく背景には、弟が精神的な病を抱えていたことがあったとされている。そんな思いを抱いた彼は、41歳になってから東京医学専門学校(今の医学部)に入り直し、医師免許を取得した。当時としては、かなり大胆な決断だっただろう。

100年前の「治療」とは
 論文の内容を少し紹介しよう。
 「山田」という仮名の少年は、ふとした瞬間に人格が切り替わり、まるで別人のようになってしまう。普段の彼—「第一人格」—は真面目な学生だが、「第二人格」が現れると、学校をサボって歓楽街に繰り出し、友人から金を騙し取り、遊び回ってしまう。本人はそのあいだの記憶がない。
 中村古峡は、この少年に対して催眠術を使った治療を行った。最初の二回は、催眠状態の中で第二人格を力ずくで追い出すという強制的な方法をとった。しかし効果は長続きせず、すぐに第二人格は戻ってきてしまった。
 興味深いのは、三回目の施術で古峡がやり方を大きく変えたことだ。
彼はこう振り返っている。
「高圧的に処置するのは、本来私の方針ではない」
力で押さえつけても、かえって相手の反抗心を強くするだけだ—そう反省した古峡は、第二人格と「交渉」するという方法を選んだ。この点については、現代の心理療法にも通じている気がする。
 第二人格を持ち上げながら、「山田から離れてくれ」と説得したのだ。第二人格は「百年間離れてやる。ただし三百円よこせ」と条件を出してきた。古峡は催眠暗示を使って、実際には何もない手を差し出し、「百円札の束」を渡すふりをした。すると第二人格は、まるで本物の紙幣を数えるように指先を動かし、満足げに受け取ったのである。
論文にはさらに、催眠状態のまま第二人格が浅草の遊び場を巡るような体験を語る場面や、最後に山田と別れを告げる場面が記されている。
この施術の後、山田は約一ヶ月のあいだ模範的な学生に戻った。しかし論文はその続きを匂わせ「以下、次号」と続くことが予告されている。

今の目で読むと、違って見える
 現在、トラウマや解離(かいり)という心の状態について研究している視点からこの論文を読むと、正直に言って、今の治療の常識では考えにくい部分も多い。けれど、それも当時なりの試行錯誤の結果だったのだろう。
 彼の文章は、原因を説明しようとしているというよりも、「これは一体何なのか」「どうすればいいのか」を手探りで試みた記録が残されている。
 それは、科学的な営みとして、実はとても大切なことである。まず観察があり、そこから考え、考えうる治療を行い、うまくいっても、いかなくても、記録として残す。その積み重ねが学問の土台だからだ。そう考えると、時代や学問の進歩によって、同じものを違う角度から眺めているのかもしれない。

出発点は違っても
 私は、ずっと後の時代に生まれ、その続きを考えている。出発点も、使っている言葉も、まったく違う。
 それでも、「人の心は、私たちが思っている以上に複雑である」という事実の前で立ち止まっている点では、どこかでつながっているように感じるし、今起きている問題になんとか対処していこうとする姿勢は現代にも通じるものがある。
 もしかすると—私たちが今書いている論文なども、100年後の誰かに読まれて、「あの時代にはそう考えていたのか」と言われるのかもしれない。
 そう思うと、先端技術がある現代であっても、わかりきらない心に向き合い、答えを探し続ける行為そのものが、次の時代への礎になっているのだと感じている。

 文献
中村古峡(1917)「二重人格の少年」『変態心理』, 1(1), 65-68.(『変態心理〔大正6年~大正15年刊〕』復刻版, 1999年, 不二出版に所収)

 用語解説
解離(かいり)
強いストレスやトラウマ体験によって、意識・記憶・感覚・自己同一性などが一時的に統合を失う現象。「自分が自分でないような感じ」や「ある期間の記憶がない」といった形で現れることがある。
トラウマ
心に深い傷を残すような体験のこと。事故、災害、虐待、いじめなどが原因となることが多い。心的外傷(しんてきがいしょう)ともいう。
催眠術(さいみんじゅつ)
暗示によって意識の状態を変化させ、心理的な働きかけを行う技法。現在では科学的に整理された「臨床催眠」として、一部の心理療法で活用されている。

こども心理学部

藤本 昌樹

藤本 昌樹
(FUJIMOTO Masaki)

プロフィール
専門:発達心理学、臨床心理学、発達精神病理学、トラウマ・ケア
略歴:東京学芸大学大学院教育学研究科心理学講座 修了
東京医科歯科大学大学院 保健衛生学研究科博士後期課程 修了
元静岡福祉大学准教授、元桐生大学准教授
臨床心理士、社会福祉士、精神保健福祉士

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