和歌山県日高郡美浜町三尾地区(旧三尾村)のバス停に「アメリカ村」という標識(写真1)があるのはなぜだと思いますか?
このような問いを中学生に聞くと、「アメリカと三尾がつながりがあったから」「昔、多くのアメリカの人が住んでいたから」「アメリカの社会に憧れて村をつくろうとしたから」など、多くの意見が返ってきます。
和歌山県日高郡美浜町三尾地区(旧三尾村)は、明治時代以降、多くの人々が故郷から海を渡り遠く離れたカナダへ出稼ぎとして行き来した「移民」の町です。三尾の人々はカナダで漁師として働き、故郷に残っている家族へ送金をし、三尾は豊かになりました。そして、裕福になった三尾には、モダンな洋館が立ち並びました。従って、三尾は「アメリカ村」と呼ばれるようになりました。なぜ「アメリカ村」というのか。これは、当時の日本人にとって「カナダ」と「アメリカ」の違いが明確ではなく、実際は「カナダ」であるものの「アメリカ大陸」へ渡ったことから「アメリカ村」と呼ばれるようになりました。
バス停一つとっても、過去に海を渡りカナダへ移住した日本の人々について益々興味がわいてきます。
近年では、カナダのバンクーバーで活動していた日系二世を中心とした野球チーム「バンクーバー朝日」が小説化されたり、映画化されたり、漫画化されたりしています。カナダの日本人移民の歴史的体験は、私達が「移民」について学ぶ上で大変有益です。
私が取り組んでいる研究の一つに「移民学習」が挙げられます。「移民学習」とは、「過去に海を渡り世界の国々で移民として暮らしを築いてきた日本人移民や海外の日系人についての学習」をさす概念のことです。
世界における人口の増加に相まって、国内及び国境を越えた人々の移住も活発化しています。日本においても「人」の移動による多文化化が進行しています。そして、今後、国内の総人口や生産年齢人口がこれまで以上に減少していくことを鑑みると、日本に暮らす外国人や外国にルーツをもつ人々の数はさらに増加し、益々日本社会の多文化化の進展が予想されます。この社会的な潮流の中で「移民学習」を通し、近年以降に多くの日本人が海を渡り移住した事実、彼らとその子孫が海外においてどのような歴史的経験をし、現在に至るまでどのような独自の文化や価値観を形成してきたのか、これらのことを学ぶことは重要です。
「移民学習」の先駆者である森茂岳雄先生(中央大学名誉教授)は、「移民」について学ぶ意義として、①グローバル教育と多文化教育をつなぐ、②多文化社会におけるシティズンシップを育てる、③異文化教育における本質主義を乗り越える、④移民(児童生徒)のアイデンティティを確認する、の4点を挙げています。森茂先生が挙げる4つの教育的意義からも、「移民学習」は、マジョリティである日本人児童生徒及びマイノリティである外国人児童生徒の両者にとって有益なものであると言えます。
話題を冒頭の「アメリカ村」のバス停について戻しましょう。カナダ日系社会では、1877年をカナダの日本人移民の始まりとしています。なぜなら、1877年に長崎県出身の永野万蔵(ながのまんぞう)がイギリス船でブリティッシュ・コロンビアへ上陸しました。永野の上陸をきっかけに20世紀初頭にかけて多くの日本人が移住しています。また、全カナダ日系人協会は1977年に永野をカナダの日本人移民「第一号」として認定しています。一方、三尾村(現和歌山県日高郡美浜町三尾)出身の工野儀兵衛(くのぎへえ)は「カナダ移民の父」として著名な人物です。工野の働きかけで多くの和歌山県民がカナダへ移住しました。日本人移民の多くは、漁業や製材業、炭鉱業等に従事しました。さらに工野は、フレザー河を上る鮭の大群を目にして、バンクーバーでの漁業の可能性を確信し、三尾村から毎年数十名を超える人々を呼び寄せました。工野の活躍を契機とし、「アメリカ村」の話へつながっていきます。
海を渡ってカナダへ移り住んだ日本人移民や日系人が乗り越えた歴史的体験から、彼らの「活躍」や「正義」について考える手掛かりが多くあります。
ぜひ、一度、みなさんも海を渡った日本人移民や日系人の方について思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
*「日本人移民」のことなら、「JICA横浜 海外移住資料館」(https://www.jica.go.jp/domestic/jomm/index.html)で学ぶことができます。
*カナダの「日本人移民」についてより深めたい方は「カナダミュージアム」(http://americamura.wakayama.jp/museum)がお薦めです。
上記以外にも国内には、日本人移民について学ぶことができる資料館が数多くあります。ぜひ、一度足を運んでみてください。