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廣島 ヒロシマ(HIROSHIMA) 広島

投稿日:2023年06月08日

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広島で G7広島サミットが開催されました。

広島に縁(ゆかり)深き岸田文雄首相が各国首脳を引き連れて広島平和記念公園内の資料館やモニュメントを案内する様子が報道されていましたが、その眼に「原爆ドーム」や平和公園はどのように映ったのでしょうか。

負の世界遺産「原爆ドーム」
(筆者撮影)

私の専門はまち・コミュニティの祈りの空間で、長く沖縄をフィールドとしており、そこには平和祈念公園という広大な祈りの空間があります。その比較対象として、広島平和記念公園にもずいぶん足を運びました。
この公園のある場所、中島町は広島市内でも有数の賑わいあるまちでしたが、原子爆弾(原爆)の被災によって一帯は瞬時に壊滅し、生存者はその日たまたま不在だった方のみと言われています。戦後、原爆により消滅したまちは公園となり、そこには多くのモニュメント(碑)が置かれるようになりました。モニュメントそれぞれの形状や碑文によって、建立者やそれに連なる方々の思いや祈りを知ることができます。今回のブログではそのいくつかを紹介したいと思います。

最も有名なものは原爆死没者慰霊碑でありましょう。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
このモニュメントの先には「平和の灯」があり、そのさらに先には原爆ドームが一直線に並び、公園の軸になっています。このデザインは優れた都市計画家でもあった建築家・丹下健三氏によるもので、碑文を読む自分【現在】に、原爆被災の象徴「原爆ドーム」【過去】と、核兵器が廃絶されたときに消される「平和の灯」の炎【未来】が重なり、歴史的存在としての自己を顧みることができる劇的な空間でもあります。きっと多くの方が体感なさっているでしょう。

この原爆死没者慰霊碑から南東、平和記念資料館近くに、原爆の犠牲になった保険会社の社員さんを慰霊する目的で設けられた「全損保の碑」があります。路傍にひっそりとうずくまるように在りながら、その碑文を読むと、軍都と呼ばれた廣島に詰め寄るような気迫を感じることができます。

「なぜ あの日はあった なぜ いまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを」

全損保の碑(筆者撮影)

被害と加害、殺された側と殺した側と、胸が押しつぶされるような人類の惨い歴史にどのように対峙するか、この地で、このようなモニュメントを前にしてこそ考えさせられることがあります。平和運動に反対する方がこのモニュメントを持ち去った事件があったことからも、「全損保の碑」のメッセージ性の強さがうかがえます。

さて、この「全損保の碑」から元安橋を渡ってしばらくしたところに「原爆犠牲ヒロシマの碑」があります。モダンアートのようなこのモニュメントは原爆被災の記憶を持たない戦後の高校生によって建立されました。平和公園の傍らを流れる元安川から表面が泡立った瓦(原爆瓦)を掘り出し、瓦表面を一瞬で溶かした核兵器の熱線の凄まじさを知った高校生たちは、この原爆瓦を埋め込んだモニュメントを作り上げました。碑文にはこうあります。
「天が まっかに 燃えたとき わたしの からだは とかされた ヒロシマの叫びを ともに 世界の人よ」

原爆犠牲ヒロシマの碑(筆者撮影)
向って左側の部分に原爆瓦が埋め込まれ、中央に碑文が刻まれている

このモニュメントは「広島」ではなく「ヒロシマ」の語をその名に冠しています。カタカナで「ヒロシマ」を用いるのは「被爆都市として世界恒久平和の実現をめざす都市」(広島市)として表現する場合のようですね。軍都・廣島からヒロシマへ、まちの性格は一変しました。各国首脳の皆さん、原爆犠牲ヒロシマの碑をつくった若い世代からの呼びかけは聞こえましたか。

他にも紹介したいモニュメントはたくさんありますが、紙面が尽きそうです。私の拙い文章よりも「百聞は一見に如かず」。研究手法としてフィールドワークを多用する私としては、読者の皆さんにも現地で体感することをお勧めしたいと思います。聞きかじった言葉や考えをさも自分のものであるかのように用いるのではなく、地に足を着けて。

いま、このようなときなればこそ。

モチベーション行動科学部

森下 一成

森下 一成
(MORISHITA Kazunari)

プロフィール
専門:都市・地域計画、地域連携、キャリア教育
略歴:早稲田大学大学院政治学研究科修士課程 修了
早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専攻(建築)修士課程 修了
琉球大学大学院理工学研究科総合知能工学(環境情報工学講座)博士後期課程 修了
文京学院大学、群馬県立女子大学、上武大学を経て現職。
専門社会調査士  キャリアカウンセラー(GCDF-Japan)

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