日本の学校では、体育祭など様々な行事を通じてクラスメイトや同じ部活の仲間たちと応援する機会が豊富だといえるでしょう。
とくに、伝統を有するといわれるような高等学校では、生徒が一斉に応援活動に参加するような集団的応援活動の機会があり、そこではリーダーと言われる応援団の生徒がそうした応援活動の統制役を担っているケースがみられます。その役割に伴う行動様式(発声/身体動作/発話内容)には文化的に強い独自性が認められるため、海外からの反応にはかなり高いものがあるといえます。
こうした応援団の役割は、単に集団的な応援を統制することだけなのだろうか?いや、何か他にもっと重要な意味が存在していなければいくらなんでもあれはおかしくないか?などと自問自答する日々が続いておりました。最近になってそうした問いに対し、応援時の統制役のほかに、学校生活を通じた生徒集団アイデンティティ形成の促進、対外的なスクールカラーの明確化、といった役割があるのではないかと考えています。
前者は、同じ学校の仲間という同窓意識を高めることにつながりますので、卒業後の後援会などの組織づくりを容易にさせる要因にもなりえます。また、後者は当該学校の存在を外部にアピールすることによって、学校のブランド化を推進する可能性が出てきます。いずれにせよ、その学校の経営にとってはプラスに作用する半面、近年ではそうした応援団の活動における同調的な圧力が、他の生徒たちへのハラスメントにつながっているのではないかとの指摘も生じており、応援団の組織化や活動力が衰退していく傾向もみられています。
確かに応援団の活動には、急速に個人主義化・多文化化する社会や学校のなかで賛否両論がみられる面があると言えましょう。しかし、一方ですでに私たちはその応援の文化に無自覚なくらい浸透してきたという歴史を背負っております。
よって、ここで私としては、そうした特異な文化の歴史を素通りし、あるいは簡単にフタをしてしまって良いのだろうか?そんなことで学校が、日本社会が持続的に発展していくことが可能なのだろうか?やはり応援団が存在してきた事実や意味を整理しておかねばならないのではないだろうか、という問いが新たにまた発生してしまうのです。